2020年を振り返ってみると、これまでより古い録音を聴くことが多かったように思う。特にも夏にジョン・マッケナ John McKenna(1880-1947)の演奏を収録したThe Music and Life of John McKenna ‘The Buck from the Mountain’ を入手できたのは幸運なことだった。CDの2枚組に分厚いブックレットが付いていて、こちらもなかなか読み応えがある。
今回は、この周辺のことについて、不正確なところも多々あると思うが、記事にしてみた。昨今日本語で得られるアイリッシュ情報は格段に質が良くなっているので、こんなことで何かしら有用な情報を提供できるとは思っていない。ただ個人的に、こういう話題を文章にするというささやかな挑戦をしてみたかっただけのことなので、これを見て正確な情報が欲しくなった人は是非前述のCDや、ネット上の情報なんかを渉猟してみてほしい。
ジョン・マッケナの演奏とその印象
マッケナの演奏が最初に録音されたのは1922年で、この年に3つのレコードが作られた。マッケナはこれらのレコードすべてでF管のフルートを使用している。彼の初期の録音は比較的柔らかな印象を与えるものだ。当時まさに黎明期にあった録音技術の限界、あるいは彼が使用していたF管フルートの特性が反映されているのかもしれない。初期の録音では、マッケナの消防士という肩書きが前面に出された。確かに、タフで勇敢なヒーローというイメージと、彼の力強いフルート演奏には通じるところがあるようだ。消防士という肩書きは彼の代名詞のように用いられるが、マッケナが実際に消防士として働いていたのは1927年までのことである。この前年にマッケナは妻を亡くし、6人の子どもたちを育てるために消防士の職から退いた。
個人的に、録音からはっきりとマッケナらしさが感じ取れるのはその後の時代だと思う。ジェイムズ・モリスン James Morrison(1893-1947)との共演もこの時期に録音された。同世代のマイケル・コールマン Michael Coleman(1891-1945)、少し後輩のパトリック(パディー)・キローラン Patrick (Paddy) Killoran(1903-1965)とともに「三位一体」と並び称されることになる名フィドラーだ。ジェイムズ・モリスンとともに、Tailor’s Thimble / Red Haired Lassや、My Love is But a Lassie / Dark Girl Dressed in Blueなど、彼の代表作とも言える録音が残された。ピアノ伴奏のみの録音としては1930年のColonel Frazerがこの頃のマッケナのスタイルを考える参考になる。この録音では、リールの1音目と3音目に明瞭なアクセントが置かれ、またグロッタルストップなどを効果的に使用して一音一音をくっきり発音することで、リズムに歯切れの良さを生んでいるのが大きな特徴となっている。最初に受ける印象は力強さと明るさだが、よく聴いていると、音色にばらつきが少なく、それぞれの音が丁寧に発音されているのを感じる。
マッケナの共演者としてはジェイムズ・モリスンが有名だが、ほかにもバンジョー奏者のマイケル・ガフニー Michael Gaffney や、アコーディオン奏者・フルート奏者のエドワード(エディ)・ミーハン Edward (Eddie) Meehan(1900-1940)と共演している。ミーハンはスライゴー県テンプルボーイの出身で、ニューヨークでプロのミュージシャンとして活躍した。彼は1930年にフィドラーのラリー・レディカン Larry Redican(1908-1975)らとともに7人編成のロザリーン・オーケストラを結成して活動した。彼とレディカンはこのほかに4人編成のロザリーン・カルテットで活動することもあり、マッケナはそのカルテットのメンバーであった。20歳年下のミーハンはマッケナの終生の友人だった。
1937年、マッケナはロザリーン・カルテットと、レディカンを除いた3人のメンバーでそれぞれレコードを録っている。例えば、Bridie Morley’s(Knotted Cord / Hunter’s Purse)では、フルートの跳ねるようなダイナミックさがさらに顕著になる。リールの3音目のアクセント(いわゆる裏拍)が一層強調され、しばしば歪んだ音が積極的に使われる。この特徴は、今日のスライゴーのフルート奏者に見られるスタイルを思わせることから、共演した(スライゴー出身である)ミーハンのスタイルとも受け取れる。しかしながら、それ以前のマッケナの演奏にも既にそうした特徴が現れているのに気付いた。例えば、1934年のColonel Roger’s Favourite / Happy Days of Youthの演奏を前述のColonel Frazerと比べてみると、ダイナミックでのびやかな演奏に変化しているように聴こえる。
同時代のフルート奏者たち
マッケナと同時代に活躍したフルート奏者にトム・モリスン Tom Morrison(1889-1958)という人がいる。彼はゴールウェイ県ホワイトパークに生まれ、1909年にブルックリンに移り住んだ。トム・モリスンは1924年から1929の間に27点の録音を残している。
トム・モリスンは1925年にマイケル・コールマンと共にレコードを録音している。録音現場には時折息子のジェイムズを連れて行ったという。ジェイムズはやがてコールマンのもとでフィドルを教わることになった。ジェイムズ・モリスンというとついさっき口にしたような名前だが、あの、マッケナと組んだフィドラーで、コールマンと同世代のジェイムズとは同姓同名の別人である。
さらに、コールマンと同世代のほうのジェイムズにもトムという名の兄がいたらしい。こちらのトム・モリスンも素晴らしいフルート奏者だったという。たしかにありふれた名前なのだろうけど、さすがにややこしい。トム・モリスンがしばしば「アメリカで活躍したスライゴー出身のフルート奏者」と誤って言及される所以だ。
ところで、この誤解にはもうひとつ原因があるように思われる。トム・モリスンの出身地はゴールウェイ県東部なのに、彼の演奏は今日その地域を代表している流麗なスタイルとはかけ離れている。むしろ持ち前の「活きの良さ」が、スライゴーやリートリムなど、コノート北部のフルート奏者を彷彿とさせるのだ。
しかし、トム・モリスンのスタイルはかなり独創的なものだ。カット・ロールなどの装飾音が少ない一方で、スタッカートを連続させたり、歪んだ音を積極的に交えたりしてフレーズの一部を際立たせる手法が多く取り入れられる。パワフルでダイナミックな質感こそマッケナの、特に後期の録音に似ているが、聴き比べるとマッケナの演奏は剛直で安定感があり、トム・モリスンの演奏は変化に富み軽妙な印象を受ける。
アメリカでマッケナやトム・モリスンが活躍している頃、アイルランドでもジョン=ジョー・ガードナー John Joe Gardiner(1893-1979) やウィリアム・カミンズ William Cummins(1894-1966)といったフルート奏者がすぐれた録音を残している。
「アイリッシュフルート」の黎明期
古い録音を聴いていると、興味が湧いてくるのは、アイリッシュフルートのルーツはどこにあるのか、ということだ。
楽器そのものについては、アイルランド音楽の文脈では単にフルートと呼ぶことが多く、以前はコンサートフルート、ジャーマンフルートという呼び名も使われたようだ。いつ、どういう文脈で「アイリッシュフルート」の呼び名が登場し、浸透していったのかについては、答えを見つけることができなかった。
しかしながら、アイリッシュフルートという用語は、シンプルシステムのフルートの呼び名のひとつとして用いるよりも、例えば「津軽三味線」のように、スタイルやレパートリーも含めた概念として使うほうが便利なのではないかと常々思っている。なので、ここではこの意味で使うことにしたい。
さて、ジョン・マッケナやトム・モリスンはアイリッシュフルートの歴史において偉大な存在だが、創始者というわけではなかった。先に述べた意味でのアイリッシュフルートには、さらに先駆者がいたようである。
アイリッシュフルートの起源には大きくみてふたつの系統がある。そのひとつ、ファイフは16世紀頃からヨーロッパの軍隊で広く用いられたキーのない横笛で、いわゆるアイリッシュフルートよりも短く、高音の楽器である。その外見は日本の篠笛になんとなく似ている。アイリッシュフルートとは異なり、低いオクターブの音をあまり使わないところも篠笛に似ているように思う。わかりやすいところでは、有名なマネの『笛を吹く少年』に描かれている楽器がファイフである。日本でも、幕末から明治時代にかけて、ファイフの音楽が西洋式の軍隊とともに導入され、いわゆる鼓笛隊が結成された。19世紀、安価で持ち運びが容易な楽器であったファイフはアイルランド全土に浸透していた。この楽器は、19世紀後半に盛んになった土地闘争でも用いられ、やがてセント・スティーヴンス・デーの伝統行事などにも用いられるようになった。
もうひとつが、18世紀からアイルランド音楽を代表する楽器となっていたイリアンパイプスである。19世紀初頭になると、手工業の発展などによりアイルランドの農村部が豊かになりつつあった。その農村部を舞台に、プロの音楽家として各地を渡り歩いたパイパーたちは、スコットランドのレパートリーを積極的に取り込んだりして、今日知られるアイルランド音楽の土台を作り上げた。当時ダンスと音楽は屋外でも楽しまれていたらしく、音量の出るパイプスはそのような場面にも適していたのかもしれない。
しかし、19世紀中盤に襲った大飢饉で、アイルランドの、特に農村部のコミュニティと文化は大きな打撃を受けた。イリアンパイプス奏者たちは活動の基盤を失い、海を越えてアメリカに活路を求めたミュージシャンも多かった。また、飢饉を境にして、アイルランド音楽は家庭やパブで小規模に楽しまれる音楽へと変化していった。大量の人口流出によって農村部のコミュニティが変容したせいなのかもしれない。また、折しも帝国全体が禁欲的な気風に支配され、ダンスと音楽の生み出す賑わいとつられて羽目を外す若者たちに対し、地域の宗教的権威が快く思わかったこともその一因と思われる。しかし、フルートはこのような状況にこそ適していたと思われる。この頃、クラシックの世界では新たに発明されたベーム式フルートが急速に普及し、対照的に入手しやすくなったのがシンプルシステムのフルートだった。たまたまなのか、好奇心を動かされてか、初めてこのフルートを手にしたのがいわゆるアイリッシュフルートの第一世代と言えるだろう。
フルートの浸透には地域による違いも多分にあったと思われるが、マッケナが少年時代を過ごした19世紀末のリートリムでは、フルートはフィドルを上回るほどの人気を得ていたという。一方で、同時期に国民の音楽を興そうとしたダブリンの知識人たちにとっては、ハープ、パイプスこそアイルランドの正当な民族楽器であった。長い歴史を持つフィドルですら一段下に見られ、フルートはアコーディオンやコンサーティナと並び、アイルランド古来の音楽を演奏するのに相応しい楽器とはまだみなされていなかったようにみえる。
当然、アイリッシュフルートはイリアンパイプスのレパートリーを引き継ぎ、装飾音などの技術も引き継いでいる。一方で、前時代のパイパーたちが築いた伝統音楽を単純に踏襲するものではなかったのも確かだ。グロッタルストップやタンギングによって作られる多彩な粒状の感触、異なる音色を駆使して躍動感を生み出す技術、効果的に配置されて旋律を引き立てるブレスなど、初期のフルート奏者は、既に横笛の特性を積極的に活かしたスタイルを構築していた。それらはおそらく、アイデアに富んだプレイヤーたちによって、ファイフでの演奏経験が取り入れられてきたものだったのだろう。
異文化に属している我々は、しばしば先にアイルランド音楽というのはこのようなものだと学んで、次にそれをフルートで表現しようと考える。一度そういう道筋を辿ると、初期のフルート奏者たちの演奏は少し奇妙なものに聴こえてしまうかもしれない。場合によっては、現代のプレイヤーと比較して技術的につたなく、楽しめないと感じる人もいるだろう。だが、初期のフルート奏者にとって、アイルランドのダンス音楽は決して教条的なものではなく、彼ら自身の中に逞しく息づいている文化だった。だからこそ、彼らは創意をもって「アイリッシュフルートという音楽」を生み出すことができた。そのように考えると、初期の録音はずっと精妙なものに聴こえ、面白味を増してくる。つい知ったような口を叩いてしまったかもしれない。私にもようやくその片隅が見えてきたばかりなのだから。