あまりやってこなかったことだけど、あるきっかけがあったのでCDをひとつ紹介してみたいと思う。買ったのはずいぶん昔だが、タイトルはThe McDonaghs of Ballinafad and Friends play Traditional Music of Sligoという。
私は、長年アイリッシュ音楽の愛好家でいる割には、それほど知識もないし、とりわけ感性や表現力があるわけでもない。なので、これはいわゆるレビューではなく、CDに託けたエッセーみたいなものだと断っておく。
今回触れるのは、1960年代に録音されたラリー・マクドナ (1911-1984)とその兄マイケル=ジョー、音楽仲間たちのセッションを収録したCDだ。ラリー・マクドナの姿はCome West Along the RoadのDVDでも見ることができる。1973年のインタビュー映像で、リールとエアを1曲ずつ演奏する姿が収められている。彼が控えめな笑顔を見せながら訥々と語る様子には、東北に住む者としてある種の懐かしさを覚える。
ラリーとマイケル=ジョーはスライゴー県南部のバリーナファドに生まれた。ロッホ・アローという湖の南のほとりにあり、ロスコモン県との境に近い村だ。CDに収録された演奏に加わっているのは以下のメンバーである。(組み合わせはトラックによって異なる)兄弟以外のメンバーはロスコモン県出身である。
- ラリー・マクドナ Larry McDonagh (フルート)
- マイケル=ジョー・マクドナ Michael Joe McDonagh (フィドル)
- トミー・フリン Tommy Flynn (フィドル)
- マイケル・デイリー Michael Daly (フルート)
- パディ・ライアン Paddy Ryan (フィドル)
- トム・ハート Tom Harte (バウロン)
ロスコモン県はターロック・オキャロラン Turlough O’Carolan(1670-1738)ゆかりの土地として知られている。バリーナファドから北東に10キロほど行くとバリーファーノンという街がある。その昔少年期のオキャロランがマクダーモット・ロー McDermott Roe 家の世話になっていた土地で、近くには彼の墓所もある。マクドナ兄弟はオキャロランを敬愛していて、家の壁には彼の肖像画が架けられていた。
また、作曲家でフルート奏者のジョシー・マクダーモット Josie McDermott(1925-1992)もバリーファーノン郊外の村の出身である。件のCDに収録された演奏には登場しないが、彼もこのメンバーによく加わっていたという。ところで、これもまたCome West Along the Roadに収録された映像で、トミー・フリンとジョシー・マクダーモットが共演しているものがある。とても好きな映像だけど…今は脱線するのでやめておく。マクダーモットについてはまた別の機会に触れることとしたい。
さて、このCD大きな特徴は、独特のパターンでリズムを紡ぎ出す足踏み音が入っていること。そして、ほとんどのトラックでチューンがひとつだけ取り上げられ、1分前後から長くても2分弱で演奏が終わることである。
パディ・ライアンは解説の中で、マイケル・コールマン Micheal Colemanやジェイムス・モリスン James Morrison以前の古い時代のミュージシャンたちはこのように単独でチューンを演奏したのではないか、と語っている。なかなか興味深い話だ。
1920年頃からアメリカを拠点に活動し、SPレコード媒体による商業録音を残したミュージシャンたちが、アイルランドの伝統音楽に残した影響はとても大きかった。これらのレコードの片面には概ね3分弱~3分半の演奏が収録されていた。(技術的にはそれ以上も可能だったと思われるが、手元にあるこの時代の録音を見る限りではそのくらいがひとつの標準だったみたいだ)
この規格化された時間にちょうど良くフィットするのが2回×3曲のセットや3回×2曲のセットだ。セッションの場でセットを組んで演奏する習慣が、これらのレコーディングに起源を発するものなのかどうかは、敢えて不見識を晒すようなので断言はしないでおこう。セットを組んで演奏の長さを調整する理由としては、ダンスとの関連もあるようだが、複数の系統を持つアイリッシュダンスの歴史をまだよくわかっていない。
しかしながら、このCDで聴くことができるチューン単体での演奏が、純粋な印象を与えるのは確かだ。ラリーたちの演奏は素朴ながら活力に溢れていて、それぞれのチューンを慈しみ楽しんでいる様子が伝わる。演奏を聴きながら、もしかすると、演奏者と聴き手が共に音楽に集中し、また自然に酒や会話に戻っていくのに、2分未満という時間は丁度いいのではないかとも思えてくる。
例えば、セッションの場で、2パートのダブルリールを3回×3曲演奏するとすると、およそ5分の間、聴き手は覚悟を決めて音楽に向き合うか、言い方は悪いが音楽を半分無視して過ごすかのいずれかを選択しないとならない。(このように、「流れてくる音楽や音声を聞き流す」というのは、多くの現代人が当たり前のように行っていることなのだが、白状すると私はこれがなかなか苦手だ。かつての、テレビやラジオに慣れていない時代の人たちもきっとそうだったんじゃないかと推測する)しかも、演奏者が熱中すればその時間はもっと長くなる。わずかな差かもしれないが、音楽が作り出す場の性質はガラッと変わるのではないだろうか。
もちろん、セットを組むことで生まれる音楽的な魅力が、もはやアイリッシュのダンスチューンを演奏する上で欠かせないものになっていることは言うまでもない。しかし、このCDを聴くと、今再び、ひとつの選択として、こうしてよりシンプルにダンスチューンを楽しむ方法もあるのではないかと考えさせられるのだ。